ヒップホップとはこういうものである!

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    ヒップホップとはこういうものである!

    ヒップホップ

    ヒップホップとは、1974年11月、アメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で、アフロ・アメリカンやカリビアン、アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティで行われたブロックパーティから生まれた文化であり、アフリカ・バンバータによる造語「アフロ・アメリカンが、文化としての音楽、ファッション、アートを取り入れ、新しいスタイルを生み出すこと」がヒップホップと呼称したのが始まりである。これを祝う習慣として11月には「HIP HOP HISTORY MONTH」と謳う。

    ヒップホップの要素

    単にヒップホップと呼称した場合では文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般的である。
    ヒップホップとは、主にラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの四代要素と呼ばれている。ところがこれらには血なまぐさい歴史が多く、主にストリートギャング文化で関係が強く、ギャング間での抗争を無血で終わらせるために、ブレイクダンスやラップでお互いの優劣を決めたり、縄張りの主張や情報の交換を目的としたことで、グラフィティを用いたりとされていた。
    現代においては、ブレイクダンスをダンスの一種として定め、世界大会まで開催されるほどメジャーなものになり、グラフィティも芸銃的な価値を高めていくものとして一部のアーティストが表現の方法として取り入れるなど、その用いられ方は大きく変容していた。
    さらにここでアフリカ・バンバータが唱えた「知識」を加え、「ビートボックス」、「言語」「服装」「企業精神」などが加わることでヒップホップ九大要素とすることもある。
    ここで述べる「ビートボックス」とは、「ヒューマンビートボックス」の事を指し、楽器類を変えない貧困層でも口や下を使っての発生を用いて気軽に音楽を楽しめるということである。俗に言う「ボイスパーカッション」が良き例となる。

    発祥・起源

    もともとヒップホップ発祥の地であるブロンクス区は貧困街であり、お金の無いアフリカ系アメリカ人が気軽にパーティを楽しむために公園で開かれていたのが起源とされる。
    そんな中でも、特定のグループなどにリーダーやカリスマが現れ、若者たちは集中して彼らの元に集まる。そんなカリスマの一人がアフリカ・バンバータであり、他に二人、クール・ハーク、グランド・マスター・フラッシュが伝説のDJとして、元祖として崇められている。
    歴史として様々ではあるが、ヒップホップがお金が無い若者たちが自分たちにも文化的な要素を楽しむことを目的としたことが根幹にあり、それらを用いることによって自己の存在を主張する場として、長年貧困層に愛され続けている文化であることがうかがえる。
    ストリートギャング間での抗争をにて血生臭い結果を起こさないためにも、平和的解決によってDJやブレイクダンス、縄張りを主張するグラフィティを用いられているので、その歴史は深く刻まれているだろう。
    しかしこれらで本当に全て解決することは不可能だろう、人間というものは敗北を味わえばそれだけ苦痛を味合わされる生き物であり、結果に納得できずに武力で強行解決するという歴史も否めないはずだ。
    だがそんな環境を大いに変えるという目的では、ヒップホップという文化の誕生の意義は大いに後世に役立っているだろうといえる。今でこそ、世界各国にその文化を知られるヒップホップだが、起源こそ人間同士の争いを最小限に食い止めるという血塗られた歴史の一端を纏っている。

    アフリカ・バンバータ

    黒人の創造性文化を「ヒップホップ」と名づけ、四大要素をを提唱した本人であり、さらにそこに「知識」という5つ目の要素を生み出したヒップホップ界のカリスマ的存在である。

    歴史

    アフリカ・バンバータは1957年4月17日にアメリカ合衆国ニューヨーク州ブロンクス川住宅地にて生まれ育つ。
    幼少期から黒人人権運動に参加していた母と叔父の影響を強く受け、また母の持つ様々なジャンルの音楽レコードに触れる機会を持つようになった。
    この頃の南ブロンクスではギャングが地域を取り仕切るようになり、縄張りでのドラッグ売買を阻止、地域の健康プログラムを支援と、自身の縄張りと、そのメンバーを守るために戦い、またパーティーを開いた。
    バンバータはこの地域のギャング、サベッジ・セブン団の創立者となり、団の成長、改名後即に指揮官として指名される。指揮官として、彼は地位を決め、縄張りの拡張をしていった。後に団体はブラック・スペード団と名前を改めることになる。彼は、他のギャングとぶつかることを恐れなかったことから、ブラック・スペード団はどんどんと成長していき、ニューヨークで人数・縄張り共に1番大きな団になっていく。
    バンバータは小論文コンクールで入賞し、アフリカ旅行を手に入れると、旅先で訪れた地域社会のあり方に感銘を受け。故郷であるニューヨークの暴力的な活動を止めようと決意する。その後、ズールー族首長のバンバータを取って、「アフリカ・バンバータ・アーシム」と改名する。首長は彼をズールー「愛されるリーダー」と称し、そのことを受け、ギャングの縄張り拡張を、どのように平和親善の為に、役立たせることが出来るかを考えだす。後に彼はギャングのブラック・スペード団を「ブロンクス・リバー団体」と変化させていく。
    DJクール・ハークやクールDJディーなどと同様に、バンバータはヒップホップのパーティーを主催するようになる。
    そもそもの「ヒップホップ」の由来としては、元々、MCがスキャットの中で使っていた一句で、バンバータが分類化されていたヒップホップ文化(DJ音楽、MCの叙情あふれた詩、ビーボーイズ・ビーガールズのダンス、落書きアート)を、1つにまとめる為に、この言葉を使ったと言われている。

    その後、1982年にバンバータを支援するダンサー・アーティスト・DJがアメリカ国外では初めての国外ツアーを組む。同年、生バンドをやめて、電子音楽などの先端技術をもちいるようになり、日本のYMOやドイツのクラフトワークに影響を受ける。YMOからは音のサンプリングを、クラフトワークからはアーサー・ベイカーのプロデュースした、ジョン・ロビーがシンセサイザーを演奏した「ビート・ボックス」を提供してもらう。この変更が大ヒット曲「プラネット・ロック」を生み出し、「エレクトロ・ブギー」と呼ばれるラップとダンスミュージックの流れをつくることになる。これによってバンバータは、自身の音楽レーベルを設立し「タイム・ゾーン・コンピレーション」をリリース。楽の作者が意図的にターンテーブルを操り、音楽作りの主体をターンテーブルを使う手法「ターンテーブリズム」をジャンル化し、1990年代の電子音楽である「エレクトロニカ」を産業的に承認されたものとして確立していった

    ユニバーサル・ズールー・ネイションの生まれ

    バンバータは自身のリーダーシップの才能を使って、地域のギャング達の生活を更生してこうと決心する。この決意が社会的政治的活動をするラッパー、ビーボーイズ、落書きアーティストなどの団体、後のユニバーサル・ズールー・ネイション誕生へと繋がる。1977年までにはDJクール・ハークやクールDJディーの影響と、シスコ・キング・マリオからの音楽装置の提供があり、南ブロンクス地区各地でパーティーを主催して行く。そしてスティーブンソン高校やブロンクス・リバー公民館でミスター・ビッグス、クイーン・ケンヤ、カウボーイなどと演奏を始める。後にブロンクス・リバー団体を設立する。後に「ザ・オーガナイゼーション」団体と改名をする。元々ギャング出身のバンバータは、脱ギャング団をしたメンバー客が多く、彼のヒップホップ文化は様々な場所に広まっていった。 約1年後ブロンクス・リバー・団体をユニバーサル・ズールー・ネイションと改名。5人のビーボーイズの参加を初めとして、多くのDJ、ラッパー、ビーボーイズ、ビーガールズ、落書きアーティストがメンバーとなっていく。
    1980年になると、彼のグループはポール・ウィンリー・レコードから、初めて「デス・ミックス」という曲を出す。バンバータによると、これはレコード会社側の、勝手な契約だったらしく、その後さらにポール・ウィンリー・レコードはソウル・ソニックの定番「ズールー・ネイション・スローダウン」まで権限を手に入れる。これに幻滅したバンバータはレコード会社から離脱する

    バンバータとしての知名度

    1982年にファブ・ファイブ・フレディーが、ニューヨークの白人地域にあるクラブ系列のマンハッタン・ニュー・ウェイブ・クラブにて流す音楽を思考中に、バンバータを招待して、ムッド・クラブにて演奏をした。これはバンバータにとって初めての白人達の前で行う演奏であり、その後も機械を重ねるごとに彼の参加するパーティーには参加者が徐々にではあるが、増加の傾向をたどるようになる。
    その後、ソウルソニック・フォースと共にJean Karakos's CelluloidレコードからBill Laswellプロデュースで "Looking for the Perfect Beat"と "Renegades of Funk"をリリース。
    バンバータの勢力

    クール・ハーク

    ヒップホップ黎明期の3大DJの一人に数えられ、「ヒップホップ界のゴッド・ファーザー」とまで称えられている。

    歴史

    クール・ハークこと、クライブ・キャンベルは、キース・キャンベルとネッティ・キャンベルの子、6人兄弟の長男としてジャマイカのキングストンで産まれる。ジャマイカで、彼は近所のダンスホールで開かれるパーティーの、音楽やDJの乾杯の音頭を聞きながら育つ。1967年にニューヨークのブロンクスに移り住む。ブロンクス横断鉄道の建設によって何千人もがブロンクスに移り住み、地域一帯を変化させていった。この鉄道建設と低地価現象によって白人の郊外への脱出を引き起こす事となる。多くの地主は保険から少しでもお金を取り戻そうと、放火脅迫で新しい移住者を脅した。このようにブロンクスでは暴力的な若いギャングの風潮が盛んに見られるようになり、1968年から1973年までその風潮はどんどんと広がって行く。
    キャンベルは高校時代に、その長身、人気、バスケットボール選手としての活躍で「ヘラクレス」と呼ばれるようになる。ともに、グラフィティグループ、エクスバンダルスにも加わり、ここでクール・ハークとニックネームがつく。その頃同時に彼は、父に懇願して当時レアだったジェームス・ブラウンのレコード「セックス・マシーン」を手に入れた。このレコードを聞くために周りの友人は集まるようになり、妹シンディーと新学期パーティーを開くようになる。これを機にハークはサウンドシステムを持つようになる。彼の初代サウンドシステムは、ターンテーブル2台、2チャンネル付きギターアンプ、PAスピーカー。これを使ってジェームス・ブラウンの「Give It Up Or Turnit A Loose」、ザ・ジミー・キャスター・バンチの「It's Just Begun」、 Booker T & the MG'の「Melting Pot」などを流す。この頃のブロンスのクラブではストリートギャングの脅威があり、年上のディスコ好きのリスナーに音楽の提供をしていたアップタウンDJが違う音楽への強い憧れを持ち、一般ラジオ局がブロンクスの若者の流行とは違う音楽を提供していたことにより、ハークの提供する新しい音楽はあっという間にリスナーに受け入れられていった。

    ブレイク

    ハークはヒップホップ音楽の原本となるスタイルを作り出す。このようなビートの多くかかった部分をブレイクと呼び、ダンサー達の最も好む所だったので、彼はそこを取り出し、変化を加えて、後に延長していくようになる。2つのターンテーブルを利用して、1枚目レコードのブレイクがかかっている間に、2枚目レコードのブレイクの部分を流す用意をしておき、その2つの短いブレイク部分を次から次へと流していくという過激な発想をうみだす。
    こうしたことから、ブレイクダンスを踊る少年を「ビーボーイズ」、少女を「ビーガールズ」と呼んでいるが、彼らはハークの刻む音楽に乗せてダンスを踊ることを指し、これらはヒップホップ文化完成の手前からその存在が根付いていたといえる。

    グランドマスター・フラッシュ

    1970年代、ブロンクスで活躍していたDJ クール・ハークからDJを学び、1970年代後半からDJ活動を始める。 その後、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ を結成し、1979年にEnjoy Recordsから「Superrappin'」をリリース。その後「The Message」など、数々の作品を生み出す。同時期にシュガーヒル・レーベルに所属していたラップ・ミュージシャンとしては、トリーチャラス・スリー、ファンキーフォー+1、ウエスト・ストリート・モブなどがいた。アフリカ・バンバータ、クール・ハークと並び、ヒップホップの創始に関わる重要なアーティストである。また、現在、数多くのDJたちにとって欠かせない技術であるスクラッチを広めた人物と言われている。しばしば誤解されるが、スクラッチを発明したのはターンテーブルで遊んでいた、彼の親戚のグランドウィザード・セオドアであると言われている。

    三大カリスマが与えた影響

    アフリカン・バンバータ、クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュの三人が与えた影響は今日までのヒップホップ界の根源になり、意味や使い方は違えどその理念は今でも広く浸透していることが容易に伺える。
    形や意味が異なる変化を遂げても、彼らが残し続けている文化としてのあり方は残っていると言える。
    しかしそれが全て彼らが伝えたかった形で広まっているとは言いがたい。
    日本において、そうした行為のほとんどが迷惑行為として扱われてしまい、自由な表現としては認めづらい側面を匂わせてしまっている。なぜそうなってしまったのかというと、それが文化的な要素で用いられるのではなく、演者たちが自分たちの存在を主張するためだけに利用しているという節が高く根付いていると見える。
    現に、グラフィティに関しても大半がタギングとして迷惑行為として取締りの対象となり、ブレイクダンスにいたっては街中で人目をはばからず大音量で音楽を流しては、堂々とダンスをして、さらにその後の片付けということが出来ていないなど、モラルに反する行いが頻発したためにそうした行いそのものに対して嫌悪感を持つ人々が出てきているといってもおかしくはない。
    こうした行いをする人々は無知のまま行動しているとは考えにくく、誇らしげにヒップホップ界の重鎮三名の名を知り、語る者もいるだろう。そこまではよしとしよう、問題はその先である。
    彼らはこうした文化という既に当てはまらない迷惑行為をしていることが、格好良いという思い込みで動いている節がある。アウトローな活動をすることで、自分が人とは違うことをすることによって満たされると、一種の自己満足に陥ってしまうという可能性も無きにしも非ずであろう。
    そうした間違った意味でのヒップホップをしていくことは、芸術的に活動している人々や、重鎮と呼ばれる方々の心を痛める現状にあるといっても過言ではない。
    日本だけでなく、世界各地にも言えることであろう。
    愛することは構わないが、意味や定義を逸するような行いは同じく教示している人々だけでなく、文化そのものに対して知識を持たない人たちの誤解を招ねいてしまう。
    正しく文化的に広めていくためには、広める人々が本来あるべき姿を正しく伝えて行かなければならないということだ大事なことであろう。